随筆:皐月会への思い


再開の流れ


 先生が亡くなってからというもの、出来るだけ兆しを捉えるように構えている。
 2019年冒頭より、この兆しを捉える感覚が強くなっていた。
 自分の意思より兆しを捉え、それに従うようにする。
 これは先生の教えであった。
 ちょっとオカルト的に聞こえるかもしれないが「直感」と思って頂ければ幸い。

突然の休眠


 発起人諸事情により2011年に突如休止宣言をしサイトを閉鎖。
 発起人はコレっきりというつもりだったようだが私は何れ再開するつもりだった。
 それは皐月会の由来と背景、動機に起因する。
 充分に果たしていないと感じていた。
 

最初の兆し


 正月、藝文会のメンバーであるMASATO氏からこんなことを言われる。
 「藝文会にまた参加したい」という話だった。
 彼を誘ったのは何の因果か先生だった。
 2019年は先生も大変で、活動が無かったことから気にしていたようだ。
 その時、先生が亡くなったことは黙っていた。
 どう答えていいか考え「また連絡するよ」とだけ言った。
 それが頭に残った。

美苑氏


 疲れ果て、そんなことも忘れた2月。
 兄である美苑氏から投げかけがあった。
 それは先生の五反野教室を片付けていた時だ。
 「書はともかく写真の発表の場が自分としては欲しい」
 それこそ皐月会でやればいいのではないかと。
 「確かにそうだね」と応対しながら正月でのMASATO氏の発言を思い出す。
 「皐月会なら出来るか」と。

 しかし今はそんな先のことは考えられないと流した。
 同時に、「もう旗振り役は嫌だな~。個人の仕事に邁進したい」と一旦忘れる。

 それでも発起人である野尻先生の住まいを整理し終えた2020年3月。
 寝込みながらボンヤリと
「皐月会か・・確かにいずれ再開したかったけど。するなら今なのか・・・」
 そんな思いが湧いた。

 それでも今後は自身の活動のみ注力したいと願い、
 考えを横へ置いておくことに。
 主宰と参加では、かかる時間も意識も天地ほど差がある。
 健康ならともかく、もう面倒は嫌だった。
 限られた時間とエネルギーを自分の為に使いたい。
 そう思った。

春に


 よくよく考え「やっぱり止めよう!!」と結論づけた。
 ところがその矢先、
 閉じていた本サイトが公開されることになる。焦った。

 それはBloggerの仕様変更による強制的なもので抗う術は無い。
 サイトを閉鎖しようかとも思ったが、
 「何れ再開する」という心づもりはあったので少し悩む。

 タイムリミットは迫り、取り敢えず少しだけ整備する。
 余りの時を経て時代感のズレが大きかったのだ。
 見られる以上は室内着というわけにはいかない。

 こうして、またしても「皐月会」を思い出させた。
 「なんなんだコレは?」とこの辺りから気になる。
 それでもサイトはざっと化粧しただけで終え、そのままにする。

秋に


 流れはそれだけに留まらなかった。
 10月、11月と立て続けにそれは起きた。
 そして「皐月会」の事を知らず口にしている自分がいる。

 野尻先生はよく「未だ来ない先」の話を良くした。
 「そうならないことを知っていて言う」大胆な人だった。
 でも、一度そうなった場合「まるで最初から考えていたように、ヤル」そういう人だった。
 毎度驚かされる。
 言うことは当然ながら二転三転する。
 でも、流れに逆らったことは無かった。

 10月ある一件で、ふと
 「これは先生だな。そうか、先生はやって欲しいんだ・・・」と思った。
 それでも覚悟は出来なかった。

 しかし申し合わせたように次の出来事が起こる。
 賭けに出た。
 そして答えは出た。
 「やる」という答え。
 決意する。

皐月会休止理由


 皐月会の発起人は書家の野尻泰煌さんだ。

 その由来は「皐月会について」を読んでいただきたい。
 無い時間と動かない身体に鞭を打って辛うじて続けてきた。
 飽きっぽい先生が皐月会だけは「また講話会を企画してよ」と必ず言ってせっついた。
 でも、先生自身は皐月会に思い入れが無いのは明らかだった。
 「何故だろう?」当時はピンと来なかったが、動機は奥様が背景にあるからだ。

 ところが2011年、その野尻さんが「閉じて欲しい」と言う。

 それは大人の事情だったが憤りが強かった。
 「皐月会は私が代表ですよね? だからその判断は私がします」
 そう言ったが先生は聞かなかった。
 「僕が言い出しっぺなんだから無関係ではいられない。会の名前だって僕の母から来ているんだから。頼むから」
 頭を垂れる師でもある野尻さんにそれ以上の拒否は出来なかった。
 しかしタダで引き下がるつもりも無い。
 「公式サイトあるでしょ。あれも削除して欲しい」
 「では休止にします」
 「いや、削除して」
 「削除はしません。外から見えないように閉じます。それで構わないでしょ?」
 「いや、削除して。見えていると困るそうだから」
 「誰からも見えなければ存在していないに等しいじゃないですか。同じことです」
 「見えないんだね?」
 「ええ。検索にも出ないように細工します」
 「じゃあ・・・それでいいよ」
 そうした会話がなされ休止が決まる。

 そのサイトが強制的に開かれたのだ。

再開への思い


 皐月会はいずれ再開する時が来るだろうと感じていた。
 それほど皐月会の発起にあたり野尻さんとは丁々発止した。
 覚悟を決めての立会だった。
 それだけに休止宣言に憤りは強く、先生の投げっぱなしも無責任に思えた。

 後に皐月会と同様なコンセプトで藝文会が始まる。
 数年し「運営に加わって欲しい」と言われたが私は断った。
 「私には皐月会もありますし」
 「皐月会はもう無いでしょ」
 「いえ、ありますよ。休止しているだけですから」と言った。

故人の思い


 もし皐月会に「野尻先生の母から授かった会名」そして
 「奥様を動機とした背景」という来歴が無ければ、
 私は喜んで皐月会を閉じた。
 基本、やるのは面倒くさい。
 しかし、その来歴を知っている以上は無責任には出来ないと考えていた。

持てる者が持つべき


 人生は短いと先生を見ても痛感する。
 先生が亡くなり、
 パンデミックがおき、
 零れ落ちるように活動を減速していく人々を外で聞く。
 作家活動を続けて欲しいというのは先生の細やかな願いだった。

 野尻さんからはよく、

 「あんたはそういう才能があるから」と言われたことを思い出す。
 「才能がある人間が活かさないで誰が出来るんだい?」とも。
 なんと身勝手な話だろうか。
 でも、先生らしい。

 2002年は私が師範資格を言い渡されながら
 弟子は持ちたくないと先生と言い合った年でもある。
 その時の説得理由も同じだった。

「アンタは人を指導する才能がある。
 才能がある人間は才能を行使する義務があるよ!!」と言い合いになった。

皐月会


 一人の力は小さい。
 どこまで出来るかわからないが、堪え得る力を尽くしたい。
 それが先生を支え、人生を捧げた先生のお母様への手向けにもなると思う。
 そして奥様の活動を背景に皐月会発起を願った先生へも。

 先生は生きるフィールドが違うので直接参加は出来ないだろう。
 それでも彼は生前に言った。
 ロード・オブ・ザ・リングみたいに霊体となって応援すると。
 それを信じたい。

皐月会への思い


 皐月会は自分の作品を宣伝する場でも商業的場でも無い。
 あくまで自身の藝業を高める場として考えている。
  • 「他の分野の知見を得る」
  • 「他分野の作品を見て刺激する」
  • 「人を通し感動を得る」この3本柱だ。
 場として活用して欲しい。
 相手では無く自分が発露して欲しい。

 真剣な飯事、真剣な遊び場と、よく先生は言った。
 何れにせよ「真剣、マジ」じゃないと困ると。
 真剣でないと「人生の縁」には足り得ない。
 書家、音楽家、文筆家、画家、華道家、造形作家、役者、動画作家なんでも構わない。
 本業があれば、本業では発表出来ないことをしてもらって構わない。
 人生において何も縁の無いというのは本当に寂しいものだ。
 誰しも1つは持っておいた方がいいと痛感する。

今度とお化けは出てこない


 第一期メンバーだった本名洗心さんが、
 第二回の講話会の時に女子大学生らを前に良いことを仰って頂いた。
 「時間が出来たら後でやろうと思うでしょ。そうしている間にお爺さんだよ。ここに良い例がいる」と優しい笑顔で自分を指した。
 彼女達はポカンとしていたが私はいたく感動した。
 その通りであろうからだ。

 先生を亡くし、なおのこと思う。
 先生もよく仰った、
 「今度とお化けは出たことが無いよ」
 そういって満面の笑みを浮かべた。

 10年の時を経て来年5/1皐月会を再開しようと思う。
 それまでは会員を募ると同時に細やかな下準備をしたい。
 もちろん作家活動あっての皐月会。
 活動を重視したい。
 皐月会は「場」に過ぎない。
 自身にとっても参加者にとっても負担の少ない会にしたい。
 宜しくお願いいたします。

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